水野翁の望みし事

その5

私が晴海にどう返答すれば良いか
とっさにはわからず、しばらく黙っていると、
横で晴海があっと声をあげた。

「そうか、親父、今あれやってんのか?
 チャットってやつ?」

「チャット」が何かもわからなかったが、
質問の良い逃げ道になればと思い、
曖昧な返事を返すと、
晴海は一人で勝手に納得し始めた。

「なるほどなぁ〜。
 確かにパソコンを使えば
 家の中で色々な人とやりとりができるわけだしな。

 あれだろ?パソコンに関する知識とかも
 独学なんじゃないの?
 元商社マンの親父らしいや。」

私はとりあえずなんとかこの場をしのげそうだと
安心する一方で、次に奥行った質問を
された場合にどうしようかと悩んでいたが、
どうやら晴海の関心事は
私の答えやすい部分にあったようだ。

湯船に浸かりながら晴海が言う。

「…正直、俺が離婚して一番落ち込んだのは、
 かわいがってた息吹の奴に会えなくなった
 親父だと思ってたんだけど、
 親父は親父で楽しくやってるんだな。」

私は湯気をぼんやりと眺めながら答える。

「…まぁ、確かにそうかもしれんな。
 だがわしも全く悩みがないわけではないぞ。

 それでもその、あれだ、チャットの、皆の話を聞いていると、
 立場の全く異なる彼らにも、些細なことから深刻なものまで、
 悩みがあるんだなということがわかるし、
 そいつらの話を聞くだけで、わしの悩みは
 やわらぐというか、どうでも良くなった気分になるんだよ。

 お前も職場とか、まぁどこでもいいが、
 とにかく周りの奴をもっと見てみたらどうだ?」

果たして自分の「チャット」という言葉の用法は
正しいのかどうかを心配していたのだが、
晴海の自然な反応を見るとどうやら合っていたようだ。

晴海は考え込みながらも返事をする。
今度は彼が要領を得ない返事をする番だった。

「なんか、よくはわからんが、
 なんとなく親父の思ってることは
 わかった気はするな。

 う〜ん、なるほど…。」

自分に似て行動に起こす前に
考え込みすぎて動けなくなる
晴海の性格を知っているからこそ、
私はここで彼に背中を押すような言葉を与える。

「考えているだけじゃ何もかわらんぞ。

 さ、わしは先にあがるからな。」


*

「ねぇ、聞いた?

 アサギリ山のふもとに
 温泉が湧いたんだって!」

私が家族との温泉旅行から帰ってきてから
数日後、夢の中でフレイが
「喫茶店の外」の噂を聞きつけてきた。

喫茶店の外には町が広がっており、
それぞれの建物や土地にきちんと
名前がついていて、住人もいる。

ただ喫茶店の「常連客」である私たちに限っては、
この町に住居はないものの、
他のお店で働くことは可能であるし、
「この世界で眠って」しまうまでは
遠出をすることもできる。

だからたまに常連客の間でも
喫茶店から「外出して」
皆で出かけようという
企画がたつこともある。

そしてその企画は大抵好奇心旺盛な
ゴルドが提案することとなる。

「じゃあ今度さ、その温泉が湧いたって
 場所まで皆で行ってみねぇか?」

その一言からいつものように
皆の言葉が飛び交い始める。

「いいね、アサギリ山の方は
 まだ僕も行ったことないし。」

「あの、サンさんにも声をかけておかない?」

「でもソイル姉、あのオッサンどうせまた
 『ダルイからパス』とかいいそうじゃない?」

「い、一応声かけとこうよフレイ。
 万に一つのこともあるし。」

「温泉って聞くと食いついてきそうな
 気もするしな。
 『ソイルちゃんとフレイちゃんの浴衣姿…!』
 とか言ってさ。」

「余計誘うの嫌よ!」

「…そもそもまだ温泉施設も立ってないんじゃ
 ないかしら…
 ツリーも行くよね?」

「…うん…ウェンも行くよね…?」

「ん、ああ、もちろんじゃよ。」

そう答えながらも、
現実で温泉街に行った記憶も新しい
この時期に、まさかこちらの世界でも
温泉絡みの話が出るとは思いもしなかったと、
私は少々驚いていた。

「その4」へ戻る  駄文一覧に戻る 「その6」に続く

「PIGEON’S MELANCHOLY」トップへ