水野翁の望みし事

その4

期待通り、私と妻は温泉町を思う存分楽しめた。


温泉町は町並み自体も趣があり、
回って歩くだけでも飽きないものであった。

また、町の所々にある足湯を巡ることで、
妻の律子の足の具合も良くなっていったようだった。

車椅子の通りづらい土産物屋の中では
私か息子の晴海が彼女に肩を貸し、
思う存分皆で立ち歩いて商品を見て回った。

町中の色々なものを見て回り、食べ歩くことで、
あっという間に時間が過ぎ、
気がつくと日が暮れてしまった。


私達親子は予約していた旅館へと向かう。
ここの旅館はいわゆるバリアフリー構造となっており、
車椅子の出入りも簡単にでき、
足の悪い律子でも部屋に付属している風呂場に
一人でも入りやすくなっていた。

「ふぅ〜、楽しかった。
 あとはここの旅館の懐石料理をいただいてっと…。」

律子は伸びをした後、「あっそうだ」と手をたたく。


「ご飯の前にお風呂よ、お風呂。
 あなたたち、私は一人で大丈夫だし、
 せっかくだから外で温泉に入って来なさいよ。」

「えっ、別に俺もここの風呂でいいよ。
 なんか、おふくろに悪いし。」

「いいから。
 私にこれ以上気を遣ってもらっても困るし。

 たまにはあなたたち二人だけで
 ゆっくりおしゃべりしなさいよ。」

「…そうだな。
 また困ったことがあったら旅館の人に頼むか
 わしらに連絡するんだぞ。」

そうして私と晴海は二人で旅館を出て、
温泉場へと向かった。

 

律子の言うとおり、
晴海と一対一で話すことは
めったになく、
久しぶりかもしれない。


晴海と肩を並べ、体を洗いながら
私は晴海に声をかけてみた。

「どうだ、晴海。
 今日の母さん、久しぶりにあんな元気な顔
 見せてくれたと思わんか?」

晴海は少し間を空けて答えた。

「うん。
 確かにおふくろ今日は楽しそうだったね。

 …まあおふくろもそうなんだけど…」

話の途中で晴海は考え込んだ。

「どうしたんだ?」

「…親父も楽しそうだったなぁ、と思ってさ。」

「…まぁそりゃあな。
 母さんと一緒で、久しぶりの旅行で
 いつもより元気がでたよ。」

「そうなのかもしれないけど…
 なんていうのかな…
 …親父、今日だけじゃなくって、
 最近ずっと元気な気がするんだよな…

 本人に聞くのもアレだけどさ、
 親父、なんかいいことあったのか?」

晴海の問いに、一瞬驚いた。

最近自分が元気に見えるなどという
自覚は正直なかった。

けれども、もしそうなら
理由として思い当たる節はある。

そう、きっと喫茶店に
通うようになったからだろう。


*

晴海からの質問に対する答を私はおそらくもっていたが、
晴海にそれをありのまま伝えることは難しいことだと考えた。

 

「喫茶店」に行くための小瓶を貰ったのは
今年(実はもう残りの日数はわずかなのだが)の
秋の中頃であった。

小瓶をくれたのは大学の同窓会で
久しぶりに出会った旧友、如月(きさらぎ)だった。

彼は国の機関である製薬関連の研究所で
働いているらしかった。

晴海が離婚したり、
律子が足を悪くしたりで
少し元気を無くしかけている私の身の上話を
聞いた如月は、「これを試してみてくれよ」と
陶器製の小瓶を渡してくれた。

「今ウチの研究所で開発中の薬の試作品なんだ。
 寝る前にこの小瓶の中のにおいを嗅ぐと、
 夢見が良くなるだけでなく、
 日ごろの疲れもとれるんだ。

 もちろん副作用とか人体に害はないよ。
 ただ、あまりこれは人によって効果が出ない場合が
 多いし、まだ世に出ていない薬だから
 あまり、というか決して他人に薦めないでくれよ。

 できるだけ、家族にもね。」

そこまで内密にすべき試作品を、
何故今日久しぶりに会ったばかりの私に
薦めてくれたのかわからなかったのだが、
早速その日に小瓶の中をかいで眠ってみた。

それが私が喫茶店に訪問した最初の晩となった。

喫茶店にはマスターの他に誰もいなかった。
私が現在の常連客の中で一番古参となる。

もっとも、他のムーンやツリーといった常連客も
この数日後にはこの喫茶店に訪れるのだが。

その日はマスターに喫茶店やその周りの町の
ルールを聞いて終わった。

次の日、如月との約束を破り、私は律子に
小瓶の中をかいで眠るよう薦めた。

現実の世界で行動が不自由となった律子の方が、
別の姿で訪れることのできるあの喫茶店に
行ってみるべきだと考えたからだ。

しかし、律子は小瓶をかいでみても
「なんのにおいもしないわよ?」と言い、
その次の日に夢のことを聞いても
「昨日の夢?全く覚えてないわねぇ」と
返されてしまった。


しかし私は小瓶をかいで寝る日は
必ず喫茶店に向かう夢を見続けた。

私はなんとなく、律子に申し訳ない気分になった。

私は数日後如月に電話した。
夢で見た喫茶店の話をし、
あの薬について尋ねてみた。

「うん、あの薬…小瓶に関しては
 あまり詳しいことは答えられないのだけど、
 君に関して言えば効果が上手くでたと言えるね。

 これからもずっとあの小瓶を使い続けても大丈夫だよ。
 前も言ったけど人体に害もないし、きっと君と同じ立場の人に
 君の夢の中で会うことになると思う。
 これからも楽しんでもらえると思うよ。

 あと、良かったらでいいのだけれど、定期的に
 僕にその夢の中での出来事を教えてもらえないかな?」

なんとも不思議で不可解な話であった。

しかし確かにあの喫茶店は自分を安心させてくれる場所だった。
常連客も増え、飽きることもない。
喫茶店に向かえるようになったのは
自分自身、何も困った出来事ではなかった。
如月にもたまに喫茶店で起きた出来事を報告するようにしている。

 

このようなことを晴海に言っても仕方がないし、
如月には他言無用と言われている。

よって私は少し考えた後、別の理由を答えることにした。
できるだけ嘘にならないような理由を。

「…最近、日記をつけるようになったからかな。
 あと…そうだな、色んな世代の人とよく話すようになった。」

晴海は怪訝な顔をして聞き返す。

「え?親父って家でほぼ一日中おふくろについてるんじゃねえの?
 どこでそんな他人と会話する暇があるんだよ?」

晴海の切り返しに、私は言葉に窮してしまった。

「その3」へ  駄文一覧に戻る  「その5」に続く

「PIGEON’S MELANCHOLY」トップへ