水野翁の望みし事

その1

「あなた、もういいわ。
 ここからは私一人で歩けそう。」

そういって律子は私の手を離し、
傍らの家の柱にしがみつく。

彼女は自分の目的地である居間まで
左足を引きずりながら歩く。

彼女の左手が傍の戸棚にかけられたとき、
戸棚の上に置かれていたふくろうの置物が
倒れてしまった。

「あらっ、ごめんなさい、あなた。
 また倒してしまったわ。」

私は律子に微笑み、倒れて戸棚から落下した
ふくろうを拾い上げた。

「(やはり邪魔になるかな。
  これでもだいぶ減らしたというのに)」

旅行先や勤務先の土地で民芸品を買い、
それを室内にに飾るという
私の蒐集癖は、ずっと妻である律子に
困った顔をさせ続けてきた。

毎回「あらやだ、また買ってきたの?」と彼女に
言われても、私はそ知らぬ顔でコレクションを
増やし続けていた。

しかし去年の今頃から、律子は足を悪くした。

それからは彼女が移動をする度に
そこらに飾ってある私のコレクションは
彼女の邪魔をし続けた。

これまで私のコレクションに
難癖ばかりつけていた彼女が
それらを落とす度に
私に「ごめんね」と謝るようになった。

それからは私は徐々に飾ってある民芸品をしまい始め、
収納できないものは捨てるようにしている。

「やっぱり冬になると関節の痛みがひどくなるわぁ。」

無事居間の座布団の上に到達した律子は
そういって自分の左足をさすっている。

「ねえあなた、温泉にでも行きません?
 足湯なんかに浸かれば、
 とっても調子がよくなると思うの。」

「それはいいね。
 最近、旅行にまったく行ってなかったからな。」

律子が足を悪くしてからは
旅行どころか、外出自体が減っている。

律子の外出には常に私の同伴が必要となる。
私はむしろそのことを楽しんでいるつもりだが、
彼女はそのことを申し訳なく思っているようだ。

だから、彼女が我儘とも言える
旅行の提案をしてくれたことは、
私にとってうれしかった。

私が隣の寝室で二人分の布団を敷いていると、
律子は独り言とも問いかけともとれる
つぶやきをした。

「旅行なんて晴海が高校のときに
 三人で行って以来かしら…。」

私達の一人息子・晴海は今年三十二となる。

晴海の所謂バツイチ歴はもう少しで一年となる。


*

晴海は二十六歳のときに同僚の女性と結婚し、
一人娘を儲けた。

一人息子の長女はもちろん
私の初孫となったわけで、
晴海の娘が産まれた時
私は心の中で大喜びした。

息子や奥さんよりも
あなたのほうがうれしそうよ、と
律子に言われたのを覚えている。

お盆や年末年始に晴海夫婦が孫娘を連れて帰るたび、
私は孫娘につきっきりだった。

けれども4回目のお盆休み以降、
私は彼女に会えていない。

晴海夫妻の離婚において、
孫娘の親権は妻に移った。

今、晴海は実家に帰ることなく一人暮らしだ。

「せっかく一人身に戻ったんだ。
 しばらくこの状態を楽しむよ。」

そんなことをアイツは言っているが、
どうやら離婚後の生活は荒れているようだ。
晴海自身、自分の娘と会わせて貰えないらしい。

晴海たちがもちろん一番大変だとは思う。

しかし、私や律子にとっても家族が減ってしまい
寂しいと感じられてしまうのも確かだ。

あの子は、孫娘は、
もう私のことなど忘れてしまったであろうか。

 

「―あなた、今、晴海のことじゃなくって
 イブキちゃんのこと思い出してたでしょ。」

律子の一言で我に帰る。

イブキ―息吹は孫の名前だ。

「あなた、たまには晴海のことも
心配してあげたら?」

晴海は若いときの自分によく似ている。
だからこそ心配はするものの、
良い方向へ導いてやることはできない気がする。
彼もきっと私と同じ失敗を繰り返し、
同じように成長していくだろう。

「晴海は自分でなんとかするさ。」

彼が自分で何とかできないのは
私自身が一番知っているはずなのに、
私は無責任なことを言う。

「それより旅行の話だ。
 二人でどこか行かないか?」

「まぁ、晴海は仲間はずれ?」

「そうか。晴海もつれて、二人がヨリを戻したくなるくらい
 ワシ等夫婦の仲睦まじい様子を見せびらかしてやるのもアリだな。」

冗談を言っておどけていると、
律子は寂しげな表情をして、こう言った。

「…もう、元に戻ることは考えないほうがいいわよ。
あの子の、晴海の新しい生活を応援してあげなきゃ。」

その質問には答えず、寝る準備を終えた私は寝室の電気を消す。
「…じゃあ、旅行でどこいくか候補を決めといてくれ。」

「…ええ、おやすみなさい。」

私は最近、毎晩居間の電気を消してから、
一旦台所へ向かう。
今晩も例外ではなく、
律子の手の届かない戸棚を開けて
中の小瓶を取り出す。

そして、ただ、中身を嗅ぐだけ。
その香りはミントのそれに近い。
どこか優しい香り。

その後、居間に戻り、律子と同様私は眠りにつく。

 

目覚めるわけではない。
はっきりとした意識と視界。
けれどもそれは夢の中に過ぎない。
律子を現実においてきている。
自分だけ現実から逃げている。

 

「あれ、ウェンさん。
 今日は少し遅かったね。」

犬の顔をした青年が声をかけてくる。
同時に、足元にリスの姿をした少女が
かけよってくる。

「あぁ、そうかな?」

どうやら、いつもより寝つきが悪かったようだ。
小瓶の香りは眠りを誘うはずなのに。

とりあえずその青年ムーンと
足元の少女、ツリーに笑みを返す。

その喫茶店の入り口にいた私は中のカウンターへと向かう。
今日もマスターは不在だろうか。

つい先程私があけた入り口が再び開いた。

ドアから顔を覗かせたのは
初めて見るウサギ顔の女性だった。

また一人、現実ではないこの店に
常連客が増えるようだ。

ごめんね火田さん その5へ  駄文一覧に戻る  「その2」に続く

「PIGEON’S MELANCHOLY」トップへ