いーちゃんから見た世界

その4

次の日、いぶきは幼稚園を休んだ。

いぶきが布団の中で不安な表情をしている間、
常に彼女の母親が傍で手を握ってくれていた。


父親は普段どおり会社へ行ってしまったが、
いぶきが真夜中に目覚めてから会社に出社する準備を始めるまで
ずっといぶきを抱いてくれていた。


いぶきは夢から覚めた後、つまりは喫茶店のある世界から戻ってきてから
しばらくの間、混乱し続けていた。


自分は高いところから落ちて、大変なことになってしまった。

落ちているとき、とても恐ろしかった。

動物の顔をしたヒトたちがいるあの世界で、人間の顔をしていた青年がいた。

その青年はこの夢は自分の夢で、いぶきの夢ではないようなことを言っていた。

もしそれが本当で、また他人の夢に入ることが良くないことならば、
いぶきは間違ったことをしていることになる。

自分が楽しみにしているあの喫茶店に行くことが、間違いだということになる。


そして、青年が自分に見せたあの表情。

自分を拒絶するあの表情。

時々母親が父親に対してこの表情をして、そしてこう叫ぶ。

「あんたなんかいなければいいのに」


青年の表情を思い出す度、
いぶきは前述の全ての事実や考えを
連鎖的に思い出してしまい、
冷静になれずにいた。


結果彼女は朝まで泣き叫ぶことをやめず、
泣き疲れてからも通常通り活動することは
難しかった。


真夜中に突然叫び声をあげるいぶきを見て、
両親はしばらく憔悴していたが、
やがて彼らはそれぞれ自分たちのすべきことを見出すことができた。


自分の娘の傍にいること。

自分が、自分たちがいることを
娘に理解させ、安心させること。


その日のいぶきの両親の行動は
いぶきにとって最善のものであった。

おかげでいぶきは午後には冷静さを取り戻し、
眠ることができた。


ただ、匂い袋を嗅ぐ余裕もなく、
次に目覚めるまで喫茶店の世界に向かうことはなかった。


*

次の日のいぶきは幾分落ち着きを取り戻し、
幼稚園に通える程度に調子が良くなっていた。


決してツリーの姿で崖から落ちた状況や、
その直前に見た不快な表情を浮かべる青年を
忘れたわけではなかった。


しかし、自分のことを心配してくれた
両親の存在がとても心強いものに思えて、
それが恐怖を徐々に上書いていく気分がした。


幼稚園ではいつも通りに苦手なスキップをしようとして
つまずきそうになり、小さな声で歌を歌い、
自由時間では物静かに絵を描き、
たまに他の園児たちを観察していた。


いつもより少し早く母親が迎えに来て、
先生に対して心配そうに何かをたずねる。

先生は笑顔で何かを囁き返し、それを聞いて
母親はどこかほっとしたような顔になる。


母親のその表情を見て、いぶきは
今晩はあの匂い袋をかいでみようと思った。


わたしは、だいじょうぶ。

いつものわたしになったから、
またわたしのいるところにもどるんだ。

ウェンや、フレイやムーンたちのいるところ。

あのおとこのひとだけのものじゃあない。


いぶきから見た世界は、大人のそれと比べて
とても小さい広さかもしれなかった。

しかし、彼女の世界は着実に広がりを見せていた。


少し早めに寝付いたいぶきは、
いつもよりも早い時間に喫茶店に到着した。

喫茶店には先客が一人だけいた。


猪顔の男、ゴルドだった。

ゴルドはツリーの姿を確認した途端、
一瞬驚きの表情を見せ、
その後笑ったように見えたが
すぐにむっすりとした表情となった。


〜つづく〜

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