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いーちゃんから見た世界

その1

いぶきは今日も
夜になるのを待っていた。

いぶきの背中より後ろにある壁、
それよりももっと後ろの方から
耳をキーンとさせるような音が
部屋中に響く。

いぶきは聡明な五歳児である。

だからたった今聞こえてきた
自分の周りの世界を壊してしまうような音が、
母親の投げたグラスが割れたことによって
発せられたことを知っていたし、

母親がグラスを投げたのは
いつものように父親とお話をしていたことが
きっかけだということも知っていた。

もちろん母親と父親は
心から憎しみあって大声で叫びあっているわけでなく、
二人とも疲れているからご機嫌斜めなんだということも、
聡明ないぶきはなんとなくわかっていた。

しかしこれだけ聡明ないぶきでも、
どうしようもなく愚かな部分があった。

両親が疲れている原因は、
全ていぶき自身にあると思い込んでいたのだ。

自分がいるせいで
周りの人が辛い思いをしているんだ。

それなら私はこの場からいなくなりたいと
しょっちゅう思っていた。

夜になればここからいなくなれる。

いぶきは夜になるのを待っていた。



いぶきにとっては奇跡とも呼べるほど
稀有なイベントであった
かつての両親との外出は、
彼女に更なる奇跡をもたらした。

外出先は地元の神社で、
そこの参道では一年中出店が並んでいる。

その中で両親に促されるがまま
たまたまいぶきが試してみた
射的において、匂い袋を
景品として当てたのだ。

それ以来、
射的屋のおじさんに
教えてもらったアドバイス通り、
いぶきは寝る前に匂い袋の中を
かぐようにしている。

おかげで彼女は
夜の間に限り自分の家から、
両親のいるこの世界から
離れることができるようになったのだ。

そこでは彼女はいぶきという名前ではなく
ツリーという名前で生活をしている。


*

「おっ、ツリーちゃん、今日も早いね。」

いぶき、もといツリーが夜に訪れる
その喫茶店では、鳩顔の店長が出迎えてくれる。

ツリーが見たことがあるその店の店員は
その店長たった一人で、たまにその店長すら
喫茶店を空けることがある。

客がいるにも関わらず店員が不在であることが
防犯上、接客上共に不謹慎であることは
5歳児のツリーでもなんとなく理解していたが、
「こっちの世界」では店員の不在が
よくあることなのかな、となんとなく勝手に解釈していた。

そもそもメニューを注文しても
店長のほうからお金を要求することはない。

他の常連客が「こっちの世界」で稼いできたお金を、
「流石に悪いから」と言って店長に払っているのを
何度かツリーは見たことがあるが、
それで支払った人に対する
店長の対応が特別良くなるわけではない。

店長が飲食代を受け取るのは
常連客の無銭飲食の罪悪感を
払拭させるためだけに過ぎないのだろう、と
ツリーはなんとなく解釈していた。

もちろん、五歳児のツリーが
「無銭飲食」や「罪悪感」などといった言葉を
知っているわけではないが、
それに近い意味合いを
「なんとなく」感じ取ることはできていた。

そう、彼女は聡明な五歳児なのだから。

「…ほかのみんなは?」

ツリーは店長に尋ねる。

「んー?
 今日は皆まだだよ。

 平日のまっただ中だから
 仕事やら学校やらでなかなか
 こっちに来られないんじゃあないかな?」

この喫茶店のある世界には
現実の世界で特定の匂いをかいでから眠ることで
訪問することができるらしい。

ツリーだけでなく複数の常連客も
同様の方法でこの世界にきた
「ヒトビト」らしい。

ただ、この世界での彼らの姿形は
人間ではない他の動物が
服を着て髪の毛を生やし、
二足歩行をしているものとなる。

ツリーはこの世界に来た当初、
自分がリスである姿にとても驚き、
こっちの世界で初めてお金が
手に入ったときに真っ先に手鏡を購入した。

それ以来彼女はこの姿が気に入ったのか、
手鏡で自分の顔を見つめ続けるのが習慣となっている。

まるで現在の自分は現実の世界で
両親に迷惑をかけている「いぶき」とは別人の、
「こっちの世界」で存在を否定されることなく生きている
リス顔の「ツリー」であることを確認するかのように。

今日もツリーは自分がいつも腰掛けている
椅子にすわり、手鏡で自分の顔をしばらく見つめ続けた。


〜つづく〜

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